トトロ都市伝説から千と千尋の神隠しまで 宮崎駿アニメを読む

ジブリ作品「となりのトトロ」には数多くの都市伝説や裏話があります。「トトロ死神説」「メイ死亡説」「原作混同説」など…トトロにまつわる都市伝説から、さまざま宮崎アニメを解釈してみたいと思います。

「坊」という存在

「千と千尋の神隠し」にはたくさんの個性的なキャラが登場してきますが、湯婆婆が異常なまでに可愛がっている「坊」もそのひとりです。坊は赤ちゃんであるにもかかわらず、体は千尋の3~4倍も大きく、丸々と太っています。そればかりか、言葉を話すこともできるし、坊が千尋にしたように一丁前に相手を脅すこともできます。この坊が湯婆婆の実の子供なのか、何かの魔法で姿を変えられているのかは最後まで分かりませんが、この坊はとても象徴的な存在として登場しているように思います。それは、現代社会には充分に大人として認知され、大人として行動しているにもかかわらず、内的には幼児性を脱却していない大人達のことです。ようするに、甘ったれの、いつまでたっても精神的に自立できない大人が多くなっているということです。これは日本が、第2次世界大戦後、国家として自立できていないことにも大いに関係があるのかもしれません。アメリカの傘下でぬくぬくと育ってきた代償とも言えるでしょう。これは、まさに湯婆婆の保護下で体だけは大きく育った坊とリンクして思えてきます。日本男児は経済的発展の中で精神的にはずっと自立できずにいるのです。わがままで、甘えん坊で、困った時には泣くだけの存在、それでいざという時には湯婆婆が助けてくれるという卑小なしたたかさだけは持っています。それが「坊」なのです。これは宮崎駿さんが自立できない日本男児を、思いっきり皮肉った存在なのかもしれません。

オクサレ様

千尋が油屋で働きだして間もなくオクサレ様が来店してきます。その容姿は巨大なヘドロの塊にような姿で、とてつもない悪臭を放っています。神とはいえ油屋の従業員たちはにとっては、とても歓迎できないお客様のようです。湯婆婆はリンと千尋を呼びつけて、オクサレ様を大湯で世話するように命じます。千尋はヘドロまみれになってオクサレ様の世話をします。するとオクサレ様の体にトゲが刺さっているのを見つけ、湯婆婆や従業員たちとそのトゲを抜きます。トゲの正体は自転車のハンドルで、オクサレ様の体からは次々とゴミが溢れ出し、オクサレ様は本当の姿を現します。オクサレ様は油屋にお礼にたくさんの砂金を残し、竜の姿になって油屋から飛び去っていきます。この竜は「名のある川の主」だったというのですが、これは大量消費社会に生きるわたしたち現代人への警告ということでしょう。近代文明の恩恵に授かって、贅沢放題の生活をしてきた現代人は、それだけ巨大なゴミ、廃棄物を垂れ流してきたというやましさを象徴しています。いつまでも隠しておきたい文明文化の負の部分がオクサレ様となって具体的な姿となって描かれているのです。その巨大な悪臭を放つヘドロの塊は、大量消費文化を謳歌してきた現代人へ突きつけられたツケなのです。私たち現代人が川や海や大地を産業廃棄物で汚染し続ければ、やがては取り返しのつかない、しっぺ返しを受けることは必至という宮崎駿さんからのメッセージなのです。

「千尋」と「千」

千尋は人間でありながら油屋で働くために湯婆婆と契約を交わします。このとき千尋は契約書に「荻野千尋」と名前を書きますが、湯婆婆は「ぜいたくな名だね」と言って、魔法で「荻野」と「尋」を消してしまいます。この時から千尋は「千」と呼ばれるようになります。しかし、何故に「荻野千尋」がぜいたくな名前になるのでしょうか?湯婆婆にとっては油屋で働く人間に名前があること自体がぜいたくなのでしょうか?このことは後にハクが千尋に「湯婆婆は相手の名前を奪って支配するんだ。名を奪われると帰り道が分からなくなるんだ…」と言っていますが、そもそも名前があるということは、個人が人間として認められていることになります。しかし、ここで千尋は単なる「千」と呼ばれることになったのです。この「千」をどうのように解釈するべきでしょうか?単なる数字、番号として考えるなら、「千」でなくて「1000」でもいいわけです。また、千尋という名前に関係なく「3」とか「4」とかの番号を付ければ良いはずです。つまり、千尋を「千」と呼ぶことは単に従業員を管理するうえで番号化したわけではなく、油屋で働くための愛称として呼んでいることになります。湯婆婆は千尋の両親は親として失格で、子供をほったらかして目の前のご馳走に夢中になるような親は豚に変えられても仕方がない、といったことを話してします。そのことから湯婆婆は千尋の本来の親の役目を買って出たのではないでしょうか?千尋を油屋で働かせることで新たに蘇らせるため、千尋に新たな名前を授けたとも考えられるのです。

再生のプロセス

千尋がトンネルを抜け、赤い橋を渡り、急階段を駆け降りてボイラー室までやって来たことの象徴的な意味は何でしょうか?暗いトンネルとくれば、連想するのは「子宮」にいたる「膣」となるかもしれません。これを母胎回帰という意味合いで千尋の行動を読んでいくと、「一度死んで新たに再生する」という母胎回帰願望を意味しているように思います。千尋が釜爺のところで釜の中に石炭を投げ入れたこと、それは単に石炭を釜の火の中に入れたことを意味するのではなくて、千尋自身の命を投げ入れたことを意味しているのかもしれません。つまり、千尋はここで一度死んでいるのです。そして一度、死んだ千尋がどのように再生していくのか、そのプロセスを追っていくことが「千と千尋の神隠し」の展開となっていくように思います。これは、トトロの都市伝説にあるように「地獄巡り」と同義になってくるのではないでしょうか?そして、千尋の成長を仕事の現場から手助けするのが、お姉さん役のリンです。リンは油屋の従業員ですが、なぜリンがここにいるのかは最後まで分かりません。いずれにしても、リンをはじめハク、釜爺、ススワタリは千尋の味方なのです。

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「坊」という存在

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千尋が油屋で働きだして間もなくオクサレ様が来店してきます。その容姿は巨大なヘドロの塊にような姿で、とてつもない悪臭を放っています。神とはいえ油屋の従業員たちはにとっては、とても歓迎できないお客様のようです。湯婆婆はリンと千尋を呼びつけて、オクサレ様を大湯で世話するように命じます。千尋はヘドロまみれになってオクサレ様の世話をします。するとオクサレ様の体にトゲが刺さっているのを見つけ、湯婆婆や従業員たちとそのトゲを抜きます。トゲの正体は自転車のハンドルで、オクサレ様の体からは次々とゴミが溢れ出し、オクサレ様は本当の姿を現します。オクサレ様は油屋にお礼にたくさんの砂金を残し、竜の姿になって油屋から飛び去っていきます。この竜は「名のある川の主」だったというのですが、これは大量消費社会に生きるわたしたち現代人への警告ということでしょう。近代文明の恩恵に授かって、贅沢放題の生活をしてきた現代人は、それだけ巨大なゴミ、廃棄物を垂れ流してきたというやましさを象徴しています。いつまでも隠しておきたい文明文化の負の部分がオクサレ様となって具体的な姿となって描かれているのです。その巨大な悪臭を放つヘドロの塊は、大量消費文化を謳歌してきた現代人へ突きつけられたツケなのです。私たち現代人が川や海や大地を産業廃棄物で汚染し続ければ、やがては取り返しのつかない、しっぺ返しを受けることは必至という宮崎駿さんからのメッセージなのです。

千尋は人間でありながら油屋で働くために湯婆婆と契約を交わします。このとき千尋は契約書に「荻野千尋」と名前を書きますが、湯婆婆は「ぜいたくな名だね」と言って、魔法で「荻野」と「尋」を消してしまいます。この時から千尋は「千」と呼ばれるようになります。しかし、何故に「荻野千尋」がぜいたくな名前になるのでしょうか?湯婆婆にとっては油屋で働く人間に名前があること自体がぜいたくなのでしょうか?このことは後にハクが千尋に「湯婆婆は相手の名前を奪って支配するんだ。名を奪われると帰り道が分からなくなるんだ…」と言っていますが、そもそも名前があるということは、個人が人間として認められていることになります。しかし、ここで千尋は単なる「千」と呼ばれることになったのです。この「千」をどうのように解釈するべきでしょうか?単なる数字、番号として考えるなら、「千」でなくて「1000」でもいいわけです。また、千尋という名前に関係なく「3」とか「4」とかの番号を付ければ良いはずです。つまり、千尋を「千」と呼ぶことは単に従業員を管理するうえで番号化したわけではなく、油屋で働くための愛称として呼んでいることになります。湯婆婆は千尋の両親は親として失格で、子供をほったらかして目の前のご馳走に夢中になるような親は豚に変えられても仕方がない、といったことを話してします。そのことから湯婆婆は千尋の本来の親の役目を買って出たのではないでしょうか?千尋を油屋で働かせることで新たに蘇らせるため、千尋に新たな名前を授けたとも考えられるのです。

千尋がトンネルを抜け、赤い橋を渡り、急階段を駆け降りてボイラー室までやって来たことの象徴的な意味は何でしょうか?暗いトンネルとくれば、連想するのは「子宮」にいたる「膣」となるかもしれません。これを母胎回帰という意味合いで千尋の行動を読んでいくと、「一度死んで新たに再生する」という母胎回帰願望を意味しているように思います。千尋が釜爺のところで釜の中に石炭を投げ入れたこと、それは単に石炭を釜の火の中に入れたことを意味するのではなくて、千尋自身の命を投げ入れたことを意味しているのかもしれません。つまり、千尋はここで一度死んでいるのです。そして一度、死んだ千尋がどのように再生していくのか、そのプロセスを追っていくことが「千と千尋の神隠し」の展開となっていくように思います。これは、トトロの都市伝説にあるように「地獄巡り」と同義になってくるのではないでしょうか?そして、千尋の成長を仕事の現場から手助けするのが、お姉さん役のリンです。リンは油屋の従業員ですが、なぜリンがここにいるのかは最後まで分かりません。いずれにしても、リンをはじめハク、釜爺、ススワタリは千尋の味方なのです。

油屋にきた千尋は謎の少年ハクの指示に従い、急階段を下ってボイラー室にいる釜爺に会いに行きます。千尋がようやくたどりつたボイラー室には6本の手足を自由自在に操る釜爺と、石炭をひとつづつ背負って運んでいるススワタリに出会います。ススワタリは「となりのトトロ」でも登場したマックロクロスケを継承した存在です。「となりのトトロ」に出てくるマックロクロスケ(ススワタリ)は手足がなく、昔からこのあたりに住んでいる生き物という設定ですが、「千と千尋の神隠し」のススワタリには手足があり「労働」の代償として湯婆婆が魔法で実体化させているという設定のようです。それは釜爺の「コラー、チビ共、ただのススに戻りたいのか!」というセリフから垣間見ることができます。やがて、ボイラー室にリンが食事を運んできます。リンは最初、千尋を拒否するような態度を見せますが、やがてリンも千尋の味方となるべく、お姉さんのような存在になっていきます。こうした描写は「となりのトトロ」でメイを助けにいったサツキ、千尋のお姉さん的存在となるリンが不思議とリンクしてくるのです。しかし、なぜ宮崎駿さんは「千と千尋の神隠し」に、このススワタリを登場させたのでしょうか?ただ単に宮崎駿さんの「遊び心」だけとは考えづらく、「となりのトトロ」と「千と千尋の神隠し」の世界観を結びつけているように思います。